333DISCS PRESS

「今年のお正月の予定は?」

【naomi】Paris経由でVeneziaに行きます
【goro】何も決まってませんが、旅行にいきたいな~。何処かゆっくり出来る所に、、、

【tico moon 影山敏彦】家でのんびりしつつ、新しいアルバムの構想を練ります!
【tico moon 吉野友加】家でのんびりしつつ、夏に始めた模様替えの続きをします!

【青芝和行】普通にいつも通り仕事をしてそうな予感が。

【甲斐みのり】お正月やお盆など、街も人も「いつもと違う」ざわざわとした様子が昔からとても苦手で、早く普通の日に戻ることを祈りながらひっそり過ごしていると思います。けれども、たくさん料理がしたいです。おせちをつくったり。

【チナボン】ゆっくりして初詣して・・・あとはsugar plant ニューアルバムの準備でしょうか。

【FALL 三品輝起】実家。

●乙女歌謡

こんにちは。甲斐みのりです。333pressの乙女歌謡コーナーでは、日本語の歌に限らず、私が10代の頃に夢中になっていた、愛らしい歌をご紹介していこうと思います。

 

今回ご紹介するのが、marie laforetの「saint-tropez blues」。1960年フランス語の原題では「saint-tropez blues」、日本では「赤と青のブルース」というタイトルで翌年に公開された映画の主題歌。共演俳優のJacques Higelinは今、Pierre Barouhが設立したSaravahレーベルでミュージシャンとして活躍しています。 ストーリーは、南仏のリゾート地での、若者同士の恋物語。正直、お話しにひきこまれたのではなく、映画の中でmarie laforetが、パーティーの途中、ギターを弾きながら「saint-tropez blues」を歌うシーンに一目惚れし、そのシーンばかりを繰り返し観ていました。
http://www.dailymotion.com/video/x3h9u_saint-tropez-blues-marie-laforet_music
それから、二十歳前後、最初はどこか旅にでかけるときこの歌を必ず聴いていたのですが、その後は、「人生のテーマ曲」とまで語っていた時期もありました。最近になって、よくよく歌詞を訳してみると、とりわけ内容があるわけでありませんでしたが。映画の中のmarie laforetが、若かった私にはきらきら輝いて見えて、おとなの女性に見えたのです。それから憧れの象徴に。今でもやっぱり、旅行にでかけるときには必ず、この歌をカバンの中にしのばせてでかけます。

 

甲斐みのり

文筆家。1976年静岡生まれ。旅・お菓子・各地の食材・クラシックホテルや文化財の温泉宿などを主な題材に、女性が憧れ好むものについて書き綴る。http://www.loule.net/

●チナボンボンブック

■「人生は廻る輪のように」エリザベス・キューブラー・ロス

ほんとうにほんとうにすばらしい本!エリザベス・キューブラー・ロスは、1926年スイスに生まれ、その後結婚して渡米。全世界ですばらしい愛と奉仕の活動をした精神科医です。これは彼女が晩年にしたためた自伝なのですが、彼女の信念が随所にちりばめられており、読むと生きる勇気がもりもりわいてきます!

エリザベス・キューブラー・ロスは、ターミナルケア(終末医療)を確立した人と言われ、「死ぬ瞬間」という本の著者としても有名です。

彼女の人生は、多くの偉人の人生がそうであるように波乱に満ちています。国際平和義勇軍での難民救済活動、カントリードクターとしての活動、そして、「死」は医者の失敗・敗北として、それまで片隅に追いやられていた末期ガンや不治の病の患者たちの救済。彼女はその活動のなかで自然と「死」とはなんなのか?という科学や宗教を超えた研究に取り組んでいくことになります。が、医者である彼女がそういう”越境”をすることは、保守的な多くの医者からはなかなか理解されずに苦しみます。また、晩年には、エイズの子供たちのためのヒーリングセンター設立をめぐり、無知であるがゆえに理解のない地元の人々から、放火などさまざまな嫌がらせをされたり命をねらわれたり…。

それでも彼女は屈することなく彼女の「無条件の愛」を貫き通すのでした。とにかくすべての人に読んでもらいたい名著です。

 

■「パピヨン」田口ランディ

エリザベス・キューブラー・ロスを知るきっかけとなった本をご紹介します。

ナチス強制収容所をたずねたロス女史は、壁に描かれた無数の蝶の落書きを見つけました。はじめはそれがなにを意味するのかまったくわからなかったのですが、彼女の活動のなかで、それがありのままのたましいの象徴なのだと確信します。「死」とは肉体というさなぎから蝶になって飛び立つことなのだと。

この蝶=パピヨンと題された本書は、終末医療の先駆者エリザベス・キューブラー・ロスの取材をしているうちに、偶然にも(必然?)父の死に直面することとなったランディさんの記録です。彼女のエッセイや小説にはよく頑固な父親が登場し、彼との確執を隠さないできたランディさん。むずかしい父子関係になかなか素直になれず、さまざまな葛藤をありのままに描いています。が、ロス女史の取材を通じて、ありのままでいること、自分らしくあることに気付き、彼女なりの受容の段階を経てお父さんを看取ります。

なんだか身につまされるところもあり、こころがじんわりとあたたかくなる本でした。

 

チナボン
バンドsugar plantのヴォーカル&ベース、正山千夏のソロユニット。2005年伊藤ゴロー氏のプロデュースで「in the garden」(333DISCS)をリリース。1994年詩集「忘却セッケン」で第10回早稲田文学新人賞受賞。http://blog.livedoor.jp/cinnabom/

●西荻の街角から〜トウキョウエコノミー:コミュニティコミュニティ(後半)

■ はじめに(「おわりに」につづく)
男性諸君に朗報だ。なんとある日、信頼できない友人から「女性にもてる方法」がメールで送られてきた。ありがとう。「星野源って誰!? 文系女子のハートをつかむ確信犯」。ふんふんなるほど「お腹が弱い」というのはポイント高いのか。やっぱりなー、ってなんでやねん。 どんな時代やねん。などと言いつつも、ちゃっかりCDを借りて友人と一緒に聞いてみた。で1曲目「ばらばら」の歌詞が流れてくるや、お互い顔を見合わせて、こりゃもてますわな、とうなづいたのだった。

<ただいま歌詞検索タイム>「おわりに」につづく。

 

■ 11冊のコミュニティ論

さて、というわけで後半(前半→)は、コミュニティつったっていろんな議論があるんだ的な、11冊の本を140文字以内で紹介してみたい(コミュニタリアンならぬツイッタリアンという、140文字以上は読めない人間が激増してると聞いてますので)。今後のみなさまの見取り図になれば幸いだ。

 

(1)広井良典『コミュニティを問いなおす』ちくま新書
こりゃよい入門書。都市論、地方自治、社会保障、医療、プチ哲学までかなり幅広い角度からコミュニティを考察してる。OECD調査による「社会的孤立度」や「自殺者数」で日本がぶっちぎりなのは有名だけど、「人生前半の社会保障」や「公的な土地活用」っていう重要な国際比較データも載ってる。

 

(2) 竹井隆人『社会をつくる自由』ちくま新書
延々と仲良しごっこやってたらデモクラシーが死ぬぞ。という「排他的・仲良しごっこコミュニティ」への辛辣な批判に満ちた一冊。デモクラシーは責任をともなった自由な利害対立のなかにしかない、てなわけで、あの悪名高き「ゲーテッド・コミュニティ(Gated Community)」すらも擁護している猛者だ。

 

(3)若林幹夫『郊外の社会学』ちくま新書
上記の本がゲーテッド・コミュニティ擁護なら、こっちは郊外擁護という珍本。前回も書いたけど、90年代をつうじて郊外は「分断」の象徴的な場として批判的に語られてきた。10年後、多摩NTから筑波 EX沿線に舞台を移し、やっとこういう反対意見がでてきた。ちなみに氏は都市論の泰斗であられるよ。

 

(4)平田オリザ『芸術立国論』集英社新書
政府の中枢に入りこんで、芸術にはこれこれこういう公共性があるんだから、国家よ、我々にお金を出しなさいよ。という日本の狭い芸術界からは村八分にされそうなロジックを、これほど戦略的に展開してる人も珍しい。芸術関係の本はあえてとりあげてないが、本書はコミュニティ論としてもおもしろいので。

 

(5)速水健朗『自分探しが止まらない』ソフトバンク新書
わは! 最高の題名ですね。自営で3年くらい経つと急に、社会がどうのコミュニティがどうの人と人をつなげてどうの、とか立派なことおっしゃる善人を五万人ほど見てきた(うそ5人)。自分探しはインフラ化してる。根源の欲望を抑圧しちゃいかん。それを見過ごすとコミュニティは危険な密室空間となる。

 

(6)ノージック『アナーキー・国家・ユートピア』木鐸社
「導くべき結論は、ユートピアにおいては、一種類の社会が存在し一種類の生が営まれることはないだろう、というものである。ユートピアは、複数のユートピアから、つまり、人々が異なる制度の下で異なる生を送る多数の異なった多様なコミュニティーからなっているだろう」。氏は唯一最善のユートピアを断固反対しながらも、他のすべてのユートピアの自由競争を認める。このメタ・ユートピア論的な方法でしか全体主義を回避することはできないんだ、というアイデアはなかなか超えられない。読後はマッキンタイアとロールズなど各種反対意見をちゃんと勘案して、どういう制度設計が必要なのかご一考あれ。

 

(7)宮崎駿『マンガ版・風の谷のナウシカ』徳間書店
ノージックの諸作と匹敵する、高度な思索をともなったエンターテイメント。ユートピアなんてない、という出発点からユートピアと正義の臨界点を深く考え抜いている。ポーニョポーニョポニョおじさんからは想像できない、思想家・宮崎駿がここにはいる。今年大流行のサンデル先生に感銘を受けた方もぜひ。

 

(8)柄谷行人『トランスクリティーク』岩波書店
こんな意見も一部にあるということで一応。コミュニズムとコミュニティの議論って近接してる。だからコミュニティ論の森を彷徨ってると一度は出くわすかも、名前も似てるし。目の敵にする資本=差異化を、国家から自立した消費者協同組合で対抗って構想はおもしろそう。でも実際ところどうなのかな?

 

(9)ハーバーマス『事実性と妥当性』未来社
うっとうしいくらい難解なので老後のお楽しみにでも。コミュニティ論の大風呂敷を広げに広げると、ミスター・公共性ことハーバーマスに辿りつくと思ってる。民主主義とは何ぞ。それは権力や法の妥当性であり、公共圏での不断のコミュニケーションによってのみ保たれる。じゃあどうやって公共圏を守るか。

 

(10)久繁哲之介『地域再生の罠』ちくま新書
昨今のコミュニティ論のなかで、もっとも支配的な主張が「地域主義」であることは言をまたない。歴史でもスローフードでもアートでも何でもいいが、スカスカになった社会の紐帯としてどう機能するのか、という視座が必要。本書では地域活性化の成功事例とされた街の欺瞞と、その末路をあばいていく。

 

(11)『雲のうえ』北九州市
暮らしブーム経由のローカリズムってのは大抵アレだけど、この地味な地方自治体がだしてるフリーペーパーには最大の敬意を払いたい。我が国の風景が完膚無きままに均一化されようとも、日常から無限に物語は紡げるという証明だ。題字=牧野伊三夫、AD=有山達也、編集=大谷道子という都会な布陣。

 

■ おわりに(「はじめに」のつづき)
さて、ここまでがんばったので「男性諸君に朗報だ」のつづきである。

<ただいま歌詞検索タイム→

はい。なるほどなるほどー。世界はばらばら、でもそのままいこう、というのは「他人の自由を侵害しない限り、伝統より体験に立脚して自由に自我を延ばしてよい」というまさにリベラルな市場の鉄則である(上記ノージック参照)。自身を含む文系マイノリティっつうのは、豊かな国に、そうやって大量に生まれるのである。この「ばらばら」になった孤独な文系諸人にむけた肯定感が、もてる秘訣なんすね。そういえば、がばいばあちゃんも言っとったで。

……なんて、恋の歌をいちじるしく勘違いしてる男性諸君は、まず「もてない」ことだけは確かであるから気をつけたまえよ。いい音楽だからもてるのだ。つまり上記のような本を読みすぎてもいけない、という教訓的な朗報だ。

 

と冗談はここまで。いうまでもなく、我々の自由の問題と「ばらばら」の問題はすべからくつながっている。かつて多くの人々が田舎のコミュニティをはなれ都市を目指した。自発的でないにしろ、窮屈なコミュニティより自由を選択して豊かな今にいたる。つまり個人の自由とコミュニティは、ある部分では相反する要素をもっているのだ(自由と秩序は補完的なものだ、という意見もちゃんとある。要はバランスなのだ)。

ともあれ、誰かのせいで終身雇用が崩れちゃったから(こういうことばっかり言ってちゃダメですよ)、不景気で自殺がふえちゃったから(東京は数ではだんとつだが、率では地方都市よりはるかに低いことは頭にいれておいて損はない)、じゃあ楽しいコミュニティを増やそう、じゃあ美しい歴史や伝統を復活させよう、みたいな簡単な話じゃない。人間だもの(使い方あってます?)。

コミュニティ論の森はいろんな樹木がまじりあって生えてて、暗い光のもと一本一本を確認しながら進んでいかないと、すぐ迷子になってしまう。というわけで、今年もあと少し。そろそろ忘年会の場所でも考えようかな。ではではアウフヴィーダーゼーン。

 

三品輝起(みしなてるおき)

79年生まれ、愛媛県出身。05年より西荻窪にて器と雑貨の店「FALL (フォール)」を経営。また経済誌、その他でライター業もしている。音楽活動では『PENGUIN CAFE ORCHESTRA -tribute-』(commmons × 333DISCS) などに参加。

●パリの街角から

●冬の足音

こんにちは、フルール ド クールの阿部桂太郎でございます。
皆さま、いかがお過ごしでしょうか。
秋も深まって、ここパリの街も朝晩は冷え込みが強くなってきました。

さて今日は、パリの街で冬の訪れを感じさせるものについてお話したいと思います。
季節の移り変わりの感じ方は人によっても様々だと思いますが、今日は私くしが「あ~、冬だな~」と感じることについて、3つご紹介したいと思います。

 

まず1つめは、枯れ木になったマロニエの木です。我が家の近くにはリュクサンブール公園と呼ばれる大きな公園があります。そして時々、娘と一緒にその公園をお散歩します。そんな時、公園の中にあるマロニエの木の葉がすべて落ち、枯れ木の梢を冷たい風が揺らしているのを見ると、「あ~、冬だな~」と感じます。さらに、噴水や池に薄氷でも張ることがあれば、冬の訪れは、もう決定的となります。

 

続いて2つめは、薪の燃える匂いです。パリのアパルトマンには、昔から暖炉のあるお部屋が少なくありません。そして朝晩の冷え込むこの時期になると、暖炉に薪をくべて暖を取るお宅が今もあります。そんな、薪の燃える匂いがどこからともなく漂ってくると、「あ~、冬だな~」と感じます。さらにこの季節、街中にある荒物屋さん(家庭用の雑貨類を売るお店)の前には、暖炉にくべるための薪が山積みになって売られていて、それを目にすることで冬の訪れを感じることもできます。なお、薪が燃える匂い…などと言うと、どこか田舎の風情のようにも思いますが、フランスの首都であるこの街は、今もそんな一面を持っているのです。

 

そして3つめは、店先に並ぶ牡蠣屋さんです。パリには牡蠣専門のレストランや魚介類に力を入れているレストランがあり、一年中、牡蠣を食べることができます。しかし、牡蠣が一番美味しくなるのは、やはり寒い季節です。この時期、近所のカフェの店先に「金曜日は牡蠣の日」なんて書かれた垂れ幕が下がり、当日になると店先に小さな牡蠣屋さんが立ち、大小さまざまな生牡蠣が並びます。そして、その場で殻を剥いてもらってカフェの店内で食べることもできますし、買って帰って自宅で食べることもできます。さらに、近所の酒屋さんの前にも牡蠣屋さんが立つことがあります。僕は普段、赤ワインを好んで飲みますが、酒屋さんにワインを買いに行った時、お店の前に牡蠣屋さんが立っているのを見ると、急きょ予定(?)を変更し、白ワインと生牡蠣を買って帰ることがあります。そして自宅までの道すがら、鼻歌交じりに「あ~、冬だな~」なんて思ったりするのです。

以上、今日は、パリの街で冬の訪れを感じさせるものについて、少しだけお話をいたしました。

 

阿部桂太郎

1965年8月22日生まれ。新潟県小千谷市出身。2003年よりフランス、パリ在住。インターネットショップ「フルール ド クール」を営む。好きなことは、旅をすること、食べること、温泉に入ること。